text:ローグライク

  • ちょっと雑にしか書けないかもしれないけど、ローグライクに人生を感じるということについて。

ローグライクは、コンピューターゲームの1ジャンルだ。自動生成されるダンジョンに挑戦して、死ぬとレベルや持ち物が全て初期化される(パーマデス)のが特徴。いろんな定義があるけど、「ベルリン解釈」などが有名。僕は、20代の後半から、ローグライクが自分にとって重要だと思い始めた。

ローグライクをやっていると、「これ、人生やないか」と感じるシーンが多発する。自動生成されるダンジョンというのは、特定のアルゴリズムでランダムに形成される「環境」だ。迷宮の形、部屋の大きさや位置、落ちているアイテム、出現する敵、そして自分の初期位置。つまりこれは、人生だ。敵のいない部屋に出現し、食料と強い武器に恵まれる人生もあれば、かなり打開が厳しいスタートもある。

ローグが登場してから15年ほど経ってスーパーファミコンで発売された「トルネコの大冒険」では、たとえばスタートして最初に出会うモンスターでゴーストが2体続く場合、もうその時点でかなり打開が難しい。僕は、こういったバラツキを繰り返し味わい、「つまりどうなればいいのか」ということに関する知識を、試行回数によって研磨していく作業に強い魅力を感じる。

人生は続いていく。運が良くない人生も続いていく。低迷しつつ、欠乏しつつ、それでも進んでいくと、リソースの問題が大きくなってくる。「ジリ貧」という状況だ。多くのローグライクでは、持ち歩けるアイテム数に上限がある。20個持てても、武器、盾、矢、巻物、食料、様々な状況に対応しようとするとあっという間に上限に達する。そこで麻雀のように「切る」という作業が続く。出会ったアイテムを拾うために、何か1つを捨てる。滅多に起こらないことに対策できるアイテムを持つ余裕はない。しかしそれはたまに起こる。その取捨選択の良し悪しは、あとになってみなければ分からない。

人生でもローグライクでも面白いと思うのは、必ずしもトラブルが悲しいことではないということだ。通販で買い物をして、粗悪品が届くかもしれないと分かった上で買ったものがやっぱり粗悪品だった時、そのギャンブルに失敗した自分の納得感が、妙に楽しかったりもする。そこに理屈があって、それを捉えることができる喜びかもしれない。

あまりにも酷い運の悪さを楽しむことはできなくても、できることは多いとローグライクは教えてくれた。特に「実行の順序」は、僕に希望を与えてくれた。一時的な攻撃力アップ、一歩進む、殴る、という一連の行動は、場合によっては攻撃力アップを2番目に持ってきたほうが有利になる。なぜなら、一時的な攻撃力アップの効力が切れるターン数以内にさらに別のモンスターと戦うかもしれないからだ。「ケチる」と世間で呼ばれる行動の中には、こうした「対応できるパターンを最大化する」というものが含まれている。持っているものが少なくても、取れる行動の種類が少なくても、人は順序やタイミングは選ぶことができるかもしれない。本当に困っているときはそんな余裕もないけど、できるときはできる。