挑戦や負荷について

(自分が考えてることの紹介として書いています。特に何も引用せず、根拠なく書いています。)

それなりの人数の人が、「すごくなりたい、活躍したい」「もっと他人に認められたい」みたいな気持ちを持ってるし、表明している。それなりの人数の人がそういう雰囲気をエスカレートさせていって、「すごくないとダメ」「最速で最強に認められていくべき」みたいな空気を作っている。それは世の中のごく一部でしかないんだけど、ついうっかり、そういう空気に飲み込まれてしまう人もいるだろう。

競争や切磋琢磨であるなら、それは参加者が勝手にやればいいことだ。だけど、空気に飲み込まれてしまう人が無理して不健康になってしまったり、衣食住を崩してしまったりするようなことがあると、「その気持ちもわかる」と思う。

「すごい」とか「活躍してる」とか「お金たくさん」とか、これらをそれなりの人数の人が求めるのも理解できる。地位・お金・名誉みたいなものは、それを使って新たな何かをできるからだ。やりたいことや好きなこと、人の夢をかなえてあげたり、困ってる人の問題解決にも挑める。展開できる。また例えば、貧しい生まれなのに素早くこれらを手に入れて、不公平を乗り越える痛快さみたいな魅力を感じる人もいるだろう。

で、すごさや偉さやお金を求めて、興味のないことを頑張って挑戦している人もいる。すごさや偉さやお金が目的ならば、たとえ手段に愛着が無くても不思議ではない。与えられた環境の中で、自分の優位性を上げていきたいと考えるのはおかしなことではないし、馬鹿にされることでもないと思う。むしろ社会性を持てているからこその反応とも言える気がする。

自分はそういう人に比べると、衣食住がなんとかなっているだけで十分な幸せを感じる。いつからか自分は、水道でお湯を使うと毎回勝手に「ありがたすぎる」という思いが起こるぐらいだ。最低限の衣食住でも途切れることなく平和に暮らせるというのは、人類の歴史でずっと常に、なかなか誰でもできることではない。貴重なことだと感じる。だから基本的に自分は、衣食住がなんとかなっているだけで十分な幸せを感じる。

だけどその代わり、余計なこととして、自分で勝手に何かに挑戦していくのは好きだ。自分で勝手に落ち着いてやることによって、「自分はこれに一生懸命だから、別のことはできない」って感じで、周りの空気を無視できるし、何かに駆り立てられるのも防げている気がする。昔から学校の集団行動が苦手で、そういう方法を取る癖ができたのかもしれない。

「できないかもしれないけどやりたいこと」というのがたくさんあって、何かを選んで挑戦する。「挑戦の良し悪し」というのも自分の中で存在していて、「良い挑戦」ができると、成功しても失敗しても「挑戦できたんだ!」と自分は幸せな気分になれるし、収穫も多い。そしてその収穫は、さらにその後やっていくことや日々の生活の中での考え方やものの感じ方にも良い影響がある。その挑戦を経た自分になれる感じがある。だからいつも、できるだけ良い挑戦になるように気を付けている。

挑戦を良いものにするための準備方法が、自分の中でなんとなくある。重要なのは、まずは自分なりの健康や衣食住が確保されていることだ。この基盤の上でやることなんだから、この基盤の大きさや丈夫さを把握した上で、基盤に合った挑戦の計画する。そして、大きく失敗しても基盤である「平和な衣食住や自分なりの健康」を失わないように計画する。挑戦が危険な賭けになってしまうと、挑戦自体が怖くなるし、挑戦中も過剰な緊張や不安や委縮が起こって、のびのびした動きができなくなる。そうなると、成功しても失敗してもあまり収穫や学びが無い。

じゃあ、安全であればあるほどいいのかと言えば、自分の場合はそうは思わない。今までよりもたくさんの時間やお金がかかるから・プレッシャーがかかるから・見通しが立ちにくいから、だからこそ挑戦の価値がある、という場合が多い。なので、具合を調整して「ちょうどいい挑戦」にした上で、自分の生活や健康にとって危険だと思ったらすぐに中断できるような環境を整えておいたり、一撃でやられてしまうような危険が起こらないように見通しをある程度作っておく。

10歳の人が、今までは近所を自転車で移動していたとする。一人でいきなり外の都道府県に移動したり、1ヵ月の旅に出かけるのは危なすぎる。最初は電車やバスの使い方を誰かと一緒に覚えたり、友達の家に一泊だけさせてもらったりして、切符を無くしたり小さな失敗をしたりしながら難度を上げていかないと、取り返しのつかないことになる。難度の上げ方や時間制限が、負荷のかけ方だ。

最初の話に戻る。自分は好き勝手に、やらなくてもいいのに挑戦をするのが楽しい。だから、なんとなくやらされる挑戦とか、やらないと生きていけないような挑戦は、嫌いな場合が多い。

とはいえ現実問題として、例えば、子が親に厳しい挑戦を強いられることとか、抗ったり逃げたりしにくい状況はいくらでもある。大人でもそういうことは少なくないかも。

だから例えば『プロジェクト発酵記』では、「好きな楽しい挑戦は最高です、やらされる挑戦は苦しいですね」みたいな話にはならないようにしたつもりだった。でも表現方法は1つではないし、その伝わり方も相手によっていろいろなので、全体を見ながら色んな表現をしていくだろうなという感じがする。ついでに、その中で自分の考えも深まっていけばいいなと思う。

(以上、『プロジェクト発酵記』についての取材を受けて、その時に準備したものを元に書いたもの)