「無理をしない」の方針

(自分が考えてることの紹介として書いています。特に何も引用せず、根拠なく書いています。)

多くの日本の若い人にとっての現実の中には、無理せざるを得ない局面がある。人間関係や生活費の工面などに限らず、自己実現や夢に向かうこと、色んな分野でそういうことが起こる。

例えば実際の世界では、できるだけ若いうちに成果を出して、その成果を別の何かに再投資したり利用してさらなる次のキャリアを手に入れたりするような競争がある。この競争に参加したり、この競争の中で成果を上げることに価値を感じる人も…多い?自分の印象ではそうは思わないんだけど、多いという声も聞く。

とりあえず多い少ないは別として、そういう競争を、視野の狭い愚かな世界だと一蹴することは自分にはできない。現実には貧しさがあって、みじめさがあって、そこから逃げたいと感じる人が多い。所持金の少ない人間が掛け金を増やすには、どこかから持ってくるか、命を削って出す(無理をする)しかない。これだけ格差に関する用語(親ガチャとか)が生まれるぐらいだから、逆転可能性が低い社会なのかもしれない。負けが濃厚でコツコツやっても逆転できないゲームに参加させられたら、早めにリスクの高い勝負をするのは自然なふるまいだ。

例えば、80年の人生を、裕福な人とそうでない人がそれぞれ同じように努力して生きていったとする。格差が固定されて拡大しているような社会では、ただ生きていくだけでも貧乏な方は病気やケガのリスクが平均的に高いだろう。悲しいことがあった時に自分を癒す時間や選択肢も少ない傾向があると思う。そういう感じで、早期に大きな無理をしてでも、一発逆転に賭けるという選択が魅力的に見える要因が色々ある。

そういう雰囲気が強いほど、社会設計が失敗していると自分は思う。20歳、30歳、40歳、50歳、まだまだ寿命までにたくさんの時間がある人たちが大きな賭けをして負けて人生に絶望してしまうと、色々大変だ。つらいと思って生きる人が多いこと自体良くないし、社会の負担も大きくなるだろうし、暗く殺伐とした雰囲気にもなる。

社会がもし、人々に競争や勝負をけしかけていきたいなら、大負けした時のフォローとセットでないとうまく機能しにくいと思う。しかし、色んな時代や色んな地域を見れば、残念だけどそこをうまくやれない社会も一般的なんじゃないかと思う。

だから自分は「無理をしない」という心で自分を守っていかないといけないな、と思っている。

自分を大事にして、取り返しのつかないダメージを負ってしまうような勝負は避ける。何かをやっていてダメージやリスクが積もってきたら、早めに逃げる。

誰に対しても無理して愛想よくしない。面倒くさいことは面倒くさいと正直に言い、やりたくないことはやりたくないと素直にいい、毒性の高いものを遠ざけ、迷ったら常に自分を甘やかす方向にパワーを使う。

そうすれば暇も余裕も生まれる。町がもっと良くなってほしいなとか、困ってる人の役に立つこともしたいなとか、そういう気持ちを実際行動に移しやすい気もする。

「そんなことをしていたら生きていけない。素早く何でもやらないと、仕事をクビになって生活に困る。」という意見もあるかもしれない。

人によって状況が色々だと思うので、そういう意見も正しい場合もあるだろう。あるいは、情報や知識でカバーできないだろうか。色んな社会制度や福祉の利用を相談したり、良い職場をしっかり探すとか。「無理をしない」をやっていくには、ある種の賢さや強さが必要かもしれないし、それほどじゃないかもしれない。

色んな人が「無理をしない」ために、どういうものが必要になってくるのかは、自分はまだ分からないことも多い。だけど、例えばここ最近の日本の場合、今より多くの人が社会問題に目を向けたりするためには、まずもっとそれぞれの生活に余裕が無いと難しいと思う(そういう人ばかりじゃないけど、そういう人は多そう、という話)。

まずは余裕を作って、眠ったり遊んだりして、それぞれの人が好きに過ごして、そのだいぶ先で、もっと自分の人生に愛着が持てたらいいなと勝手に思っている。人生に愛着が持てていれば、傾向として、社会環境も損なわないようにしたがるんじゃないかと想像している。悠長な話かもしれないけど、それぐらい遠いと思う。

自分の場合は、以前は多少無理をしていた自覚がある。無理をしていて、それによって得たものもあったけど、絶対にどこかでやめたほうがいいと思っていた。そういう人はある程度いると思うので、同じような感じの人に向けて、こういうことを書いているところがある。

(以上、『プロジェクト発酵記』についての取材を受けて、その時に準備したものを元に書いたもの)